* * *
さて、どうするか─
と思い巡らせて、彼はもう一度さきほどのカフェのあたりに視線を漂わせた。
先ほどと変わらぬ眺めの隅で、その瞳が、ふと、動かなくなった。
華やいだ空気より少し隔てた処に、ひっそりと互いのワイングラスを触れ合わせる、若い男女の姿があった。
女の方が何か言い、男の方が微笑みながら、彼女の髪にそっと手を伸ばした。
周囲の喧騒から切り離され、そこだけが、静かな別世界になっているような光景を、アルベルトの薄い水色の眼が遠い幻のように見つめ、
そして背けられた。
カーキ色のスラックスの足が、階段の上に立ち上がった。
そしてイライラと降り始め・・・と、その右足の膝に、いきなり、ドン、と軽い衝撃が当たった。
あっ、という声がして、アルベルトの足元に、幼い少年の身体が転倒した。
「っ・・・・と!すまない。」
アルベルトは慌てて少年の前に屈みこみ、その華奢な身体を助け起こした。
彼の両足のズボンの裾を軽く片手で払って、何処にも怪我をしていないことを確かめると、彼は少年の顔を覗き込んだ。
「階段で危なかったな、痛いところはないか?」
そう労わったアルベルトを、透んだハシバミ色のまるい瞳が見上げ、じっと見返した。
ん?どうした・・・?と目顔で問いかけたアルベルトに、少年は、白い頬に淡い笑窪を浮べた。
そして、嬉しそうにこう言ったのだった。
「やっぱり 来てくれたんだね・・・今日は1人みたいだけどね。」
え・・・っ?
アルベルトは、思わず怪訝そうな顔で少年を見返した。
しかしその少年は、さらに謎めいた言葉を、明るい口調で重ねた。
「僕 あの時の約束、果たしに来たよ。」
あの時の・・・約束?と、アルベルトは戸惑ったように繰り返した。
首を傾げ気味に微笑んで、いま目の前で自分を見上げている幼い少年を、彼はあらためて見つめた。
「いや、坊や、すまないが・・・」
歳の頃は、およそ、5,6歳といったところだろうか?
擦り切れた膝当てのついただぶだぶの茶色い吊りズボン、これもお古なのか襟元が少し緩んだシャツ、足元には、
頑丈そうだがかなり履き古した、紐靴・・・
アルベルトは、少年の屈託の無い表情とは裏腹なものを感じさせる、
清潔だがあまり上等とはいえない出で立ちを目に納めながら、穏やかに、そして正直に答えていた。
「どうやら、勘違いをしているんじゃないかな?俺には、君と何処かで会ったという記憶も、約束をしたような覚えもなさそうなんだが・・・」
すると少年は、細面の頬にうっすら笑窪を浮かばせ、悪戯っぽく首を竦めた。
「しようがないよ、だってもうずっとずっと前の事で、そのあとにもほんとに色々あって・・・僕も忘れちゃっていたからね。」
なるほどな、ボウヤも波乱の人生だったわけだ、
と、つい少年に向かって揶揄が零れそうになり、アルベルトは慌ててそれを呑みこんだ。
だが、そんな相手の様子に気付く風もなく、少年は、自分のズボンのポケットのなかを覗きこむと、何かを取り出した。
小さな手に引き出されたのは、茶色くくすんだ、一通の封筒だった。
少年は、皺の拠ってところどころ擦り切れている表面に、目を落とした。
ふいに、幼い年齢らしからぬ表情が、少年の俯いた面によぎって消えた。少年は、呟くように続けた。
・・・これが出てきたおかげで、思い出したんだ・・・
少年の無邪気で直向な瞳が、アルベルトに向けられた。
「今度は僕が 贈り物をするって約束したこと僕をお祝いしてくれた人たちにね。」
そうか それは感心なことだ・・・アルベルトは、ゆっくりと相槌を打った。
のどかなオルガンの音色に合わせて、大道辻の陽気なパフォーマーが、ひらりと一輪車に飛び乗るのが、視界に入った。
その動きを目で追いながら、ぼうや、・・・と、彼は呼びかけた。
そして、優しく少年を見下ろした。
悪いが、これから用事があってね・・・そろそろ行かないといけないんだ・・・。
そう、口を開こうとした、その時。
自分に差し出されたものに気付いて、彼は少年を見返した。
「・・なんだ・・お前の大切なものじゃないのか?」
反射的に手をのばしてその古い封筒を受け取り、アルベルトが少年に確かめるように聞くと、少年はにっこりと笑って首を振った。
「ううん ちがうよ。」
─ ずっと あなたとあの人に 渡しそびれいてたんだ
俺と・・・・あの・・ひと?
アルベルトの瞳の戸惑いが、微妙に変化していった。
聞きとがめた言葉を、無言の目顔で繰り返した彼の前で、くるりと少年は踵を返し、叫んで行った。
「あなたとヒルダさんにね!」
アルベルトの顔から、いっさいの表情が消えた。
声さえも、忘れた。
喧騒の失せた空に、オルガンの音色だけが、響き続けた。
何も書かれていない封を、手袋の指先がゆっくりと、返した。
動揺を刻む手袋の指先が、煉瓦色の蝋を押した封印を、解いた。
すると、開いた口から、重なりあったセピア色の薄い束がいちどに滑り出してきた。
・・・・・これ・・は・・・
色彩のない世界の一枚目を、光に緩む氷のような瞳が瞬きもせずに見つめ続けた。
懐かしい面影と、はずむような小さな影が、モノクロの広場を背景に目配せしながら並んで立っている。
・・・・・ヒルダ・・・!!
彼の脳裏の何処かから、ゆるやかに浮かび上がった光景が、微かな遠い声をこだまさせ、その写真のすべてと重なった。
(パパにはナイショだけど、たくさん撮ったよ。
だって僕のお誕生日をお祝いしてくれて、それに・・・僕に初めてリクエストしてくれた最初のお客さんだもの!)
(ふふふ、それじゃ約束よ。
もしも、今度アルベルトの誕生日にここで会えたら・・・その写真と・・・・例のね?)
(うん、わかってる。忘れないよ僕、絶対に忘れない。)
・・・・ああ・・・どうして・・・
アルベルトは忙しなく次の写真を捲った。
見覚えのある花壇のある風景に、あの少年と自分が向かい合って立っている。
少年は掌を上に向けてアルベルトに差し伸べ、嬉しそうな笑顔を浮かべており、自分はその少年の掌の上に、片手拳のせて
何かを渡しており・・・
(そら・・・やるよ。坊やの誕生日プレゼントだ。)
(・・・・何?これ・・・何の木の実?)
(これか?リ・・ン・・・。 いや、自分の名前を付けて好きな場所に埋めるといい。)
(それじゃ、アーサーだね。ありがとう。ここに埋めるよ。)
(あら、こんな処に埋めちゃうの?)
(うん。ここはあなた達に会った素敵な場所。パパとの待ち合わせ場所。)
(坊や、・・・・・。手伝うわ。)
震える息を吐いて、アルベルトは顔を上げていた。
あたりを見回しても、少年の姿は何処にも見当たらない。
だが、彼は、明るい広場の喧騒に背を向けて歩き出していた。
この色あせた場所、遠いあの日、自分達がたしかに立っていた処。
小さな身体と彼女が並んで屈み、黒土を掘り返した庭へ─。
大股に石段を駆け上がった足が、罅割れた石畳を歩き、古びた礼拝堂の狭い生垣道を潜り抜けて、裏庭に出た。
錆びて朽ちかけた鉄門の柵を、アルベルトはゆっくりと押し、2,3歩進んで。
止まった。
(地味だけど、丈夫で立派に育つの。
冬でも緑色をしていて。私の大好きな樹よ。)
雨上がりの土と樹木の匂いがする庭で、アルベルトは立ち尽した。
(すごいや。そんな大きくなるんだったら、いつかリトル・アーサーじゃなくて、グレート・アーサーだ。)
(ほう・・・坊や、アーサーっていうのか。)
(うん。『リトル・アーサー・ブリテン』って、親方・・・パパは呼んでる。)
(そうか・・・じゃ、いつかコイツと一緒に大きくなったら・・・『グレート・アーサー・ブリテン』か。)
* * *
アルベルトは、そこに立っている1人の男を、身じろぎもせずに見つめた。
何か、言おうとしたが、声が出なかった。
彼に向かって伸ばした手を、無言のまま、また下ろした。
澄んだ陽射しをじっと仰いでいた彼が、穏やかな眼差しを、彼に向けた。
「お前さんの言った通りだった。」
グレートは、のんびりとした声でそう言うと、ふたたび頭上を仰いで、続けた。
「あんなチビが、こんなでっかい樹に・・・」
そう言うと、グレートは、ポケットから出した手で、太い樹幹を撫でて軽く叩いた。
しずかな風が、祭りのパレードの響きを運んでそよぎ、大樹の茂りを揺らして過ぎていった。
「・・・あの日、な。行けなかったんだ。」
アルベルトは、ようやく言葉を口にした。
「あんたと交わした約束は覚えていたんだ。だが・・・」
途切れ途切れのアルベルトの言葉を聞きながら、グレートは、ゆたかに茂り立つ樹木を見上げ続けていた。
「だが・・・あの日は・・・」
脳裏に、その日の雨と激しい場面が閃いて、アルベルトは反射的に目を閉じていた。
ダメだった。
手足がバラバラになってしまいそうな虚無感が片腕から全身に広がりそうになり、アルベルトはきつく右拳を固めて耐えた。
すまなかった
─と呟いたきり、口をつぐんだアルベルトの肩に、グレートはぽんと手を置いた。
「俺もだ。ま、こっちも色々あってな。」
さらりと明るくそう言い残し、グレートはおもむろに背後を振り向くと、落ち葉の散り積もった足元を探るような足取りで、
大樹の裏側に入って行った。
アルベルトは、そんなグレートの背を、無言で見送った。
・・・40年前、まだクロッカスしか咲いていなかったこの場所で、一心に歌を歌って父親の帰りを待っていた・・・
旅芸人の小さな子供を思い返しながら。
うろ覚えのメロディーまでが微かに胸に蘇ってきて、アルベルトは、手元に目を落としていた。
3枚目を、アルベルトはそっと、封から引き出した。
ちらちらと揺れる木漏れ日に、その瞬間の映像がほの白く光った。
動かない氷の瞳が、ごく微かに緩んで、それを見下ろした。
「・・・いつ・・・見つけたんだ?この写真を・・・」
ひっそりと尋ねたアルベルトの声に、ああ、それはな、と樹の後ろの穏やかな声が答えた。
・・・長いこと地下蔵に押しこんだままにしといた『返却私物』の一部だ・・・
グレートの穏やかな声がふと途切れた。
短い沈黙の後、ガサガサと落ち葉や枝を掻き分ける音がし、やがて、声はふたたび始まった。
「それをたまたまひょんなことでつっついてみたら・・・」
翳りなく語り続ける言葉を聞きながら、アルベルトは、木陰に写真を重ねるようにかざした。
褐色がかったモノクロの庭に直立する『リトル・アーサー』の像と並んで、その時、木漏れ日にグレートがゆっくりと現れた。
そして、後ろ手に隠すように持っていた一台の楽器を、アルベルトに向かって掲げ、笑んだ。
「こいつと一緒に出てきたってわけだ。」
それは、長い年季を深い飴色の艶に帯びたフィドルだった。
アルベルトは黙ってその弦楽器を暫く見つめ、やがて言った。
「・・・・親方・・・オヤジさんのか・・・」
ふむ、とグレートは頷いた。
すこし沈黙して、やっと触れるようになった・・・、と低く言い添えた。
しずかに葉擦れがそよいだ。
やがてその下で、グレートは、さて、と明るく沈黙を破った。
「まだほかにも積もる話は山ほどあるんだが・・・それはひとまず夜にまわして、だ。」
グレートの眼差しがアルベルトの手元の写真に流れ、一瞬遠いものになった。
色あせた風景の中、フィドルを抱えた少年の隣に屈み、こちらを見て微笑んでいるひとに、彼の目は懐かしげに揺れ、みじかく瞬いた。
やがてかすかに滲んだ声が、告げた。
「では、ぼちぼち、40年前の『約束』を果たすとしようか・・・」
アルベルトは、目の前の男が、かつて見た陽気な芸人と同じ姿勢で、楽器を飄然と構える姿を、無言で見つめていた。
─ あの日。
彼女からナイショでリクエストされていたお前さんへの『贈り物』だ。願わくは最後までご静聴のほどを ─
『グレート・アーサー・ブリテン』の声が、アルベルトの耳に流れ込んだ直後、青い空の晴れ間に、
フィドルの伸びやかで軽快な音色が、湧きあがった。
それは、かつて恋人がこよなく愛し、口ずさみ、ハミングしていた曲の旋律であった。
ぬくもりと懐かしさに満ちて、響きは庭中に広がってゆく。
如何に長い時が過ぎ去り
この世の如何なるものが崩壊し 変わり果ててしまっても 覚えておおき
けっして 変わらぬものがある・・・
けっして 滅びぬ言葉が ある・・・
ヒルダ、
と、アルベルトは声を上げていた。
なぁに?と、目の前で応えて振り向いた気さえして、アルベルトは、はっと我に返った。
手の中に目を戻した。
するとそこに・・・
思い出すことさえ自分に禁じたあの笑顔が、うすいセピア色の光彩を纏って、彼を生き生きと見返していた。
その微笑を見下ろす横顔に、みるみるうちに広がってゆく表情が、あった。
それは、彼がとうに棄て去っていたはずの、人間の素直な感情の、表情だった。
とめどなくあふれて流れ続ける音色のなかで、肩が小刻みに震え始め、
白い手袋の手が、風に揺れた前髪をかきあげて、そのまま、顔を覆った。
・・・・・・・、 ・・・・・・。
その時、彼ら以外には誰にも聞こえない声で、アルベルトは言葉を、告げた。
すこし、グレートは目を見張った。
それから、ゆっくりとその顔を穏やかに綻ばせて、彼はそっとアルベルトに背を向けた。
そして、笑いながら応えたのだった。
ああ・・・もちろんだとも・・・
深い緑の巨樹の元から、フィドルの響きは湧き続けた。
永遠の真実を詠う音色は、自由を取り戻した国の明るい空を、何処までも遠く、渡って行った。
─ 了 ─