ケーキ
その日の昼下がりに、闖入者は現れた。

午後になって、ハインリヒはようやく重い腰を上げた。
今日は日曜日。
仕事は休みをもらったものの何も予定はなくて、一日部屋で無為に過ごしていた。
外は天気が良くて、明るい陽射しが眩しすぎて、それゆえに街中に出てゆくのが億劫になっていたところもある。
遅くに起きた後は、朝刊にゆっくりと目を通したり、買ったままにして積んでおいた本を広げてはだらだらと過ごした。
そうしているうちに時計の針は正午を過ぎ、もうすぐ二時をさすところだった。

静けさを打ち破るかのように、急にドアが叩かれた。
ハインリヒは落ち着いた足取りでドアの前に向かった。
ドアの向こうに立っていたのは、小さな女の子だった。
知っている顔だった。下の階の住人の娘だ。
名前はアンナという。年はたしか七つ。
彼女がここを訪ねてきたのは、これが初めてのことではなかった。

「アルベルト、―――いる?」

彼女の声を聞いて、ハインリヒはドアの鍵をあけた。
すると、制する間もなく、すこしだけ開いたドアの隙間から、小柄なアンナの身体が、部屋の中に滑り込んだ。
ばたばたと足音をたてながら、アンナは部屋に入っていった。
ハインリヒの長い腕が彼女の肩をつかまえると、ようやく彼女はこちらを振り向いた。

「これ、食べて」

そう言って、彼女はハインリヒに手に持っていた小さな紙の箱を差し出した。
振り向いた彼女の顔は、泣いた後のようだった。
目が潤み、頬が赤く染まっている。
「喧嘩でもしたのか?」と問うと、ふたたび横を向いてしまった。
アンナの足は、そのまままっすぐに、ハインリヒへの寝室へと向かった。
ハインリヒが中を覗き込むと、アンナはベッドの片隅に身体を丸めてうずくまっていた。
そうして、先刻の涙の続きを流しているのだろう。
やれやれ…と、ハインリヒは思った。
せっかく買い物に行こうかと腰を上げたところだったのに―――。
これでは、部屋を空けることもかなわない。

おおかた親御さんと喧嘩でもしてきたのだろうと、ハインリヒは思った。
アンナは下の階の部屋に住む、若夫婦の一人娘だ。
ひょんなことがきっかけで、彼女の母親と親しく言葉を交わすようになったところ、
思いがけず娘のアンナまでもが彼のことを気に入ってしまった様子だった。
以来、姿を見かければ向こうから親しげに声をかけてくるし、以前には部屋の鍵をなくしてしまった彼女を、
母親が戻ってくるまでのあいだ預かったことがあった。
それに味を占めたのか、ハインリヒの暮らす部屋を居心地が良いものと思ったのか。
アンナはちょくちょくと、ハインリヒが居るときを狙っては、顔を覗かせるようになっていた。

アンナの様子がやけにおとなしいのを気にかけて、ハインリヒが様子を見にゆくと、
彼女はベッドに身体を寄りかからせたままで眠ってしまっていた。
ハインリヒはしばらく彼女をそのままにしておいてやることにした。

アンナから貰った箱の中身を、ハインリヒはこっそりと開けてみた。
中には切ったケーキが二つ、入っていた。
どうやら大きなケーキを切り分けた残りのようだった。
切り口はすこし乾いていたし、表面のクリームも固まっていた。
ひとつには砂糖菓子の薔薇の花が乗っていた。

そして、もうひとつには―――。

彼女は昨日が誕生日だったのだろうか。
誕生日を祝う言葉が書かれたチョコレートの板が飾ってあった。

今日はハインリヒの誕生日だった。
アンナがこれを自分のところに持ってきたのはきっと偶然に過ぎないだろう。
それなのに、これを見たときに、ハインリヒの心になぜか少しだけ明るいものが灯った気持ちがした。

仲間たちと別れて暮らすようになって、もう数年が経つ。
ある者は生まれ育った故郷で暮らし、ある者はそれまでとは全く別の場所で暮らしの場所を得ている。
仲間たちの誕生日を聞きだして、祝いの真似事のようなことを繰り返していたフランソワーズに対して、
こういう煩わしい慣習はもう止めようと言い出したのは、ほかならないハインリヒだった。
フランソワーズは口惜しそうな顔をしたが、実際に祝い事を続けられたのはほんの数回だけで、
あとはそれぞれの都合もあって、うやむやなうちに終わってしまった。

だから、今日が自分の誕生日だからといって、何も特別なことはない。

仲間から祝いの言葉が届くこともなければ、特別な来客があるわけでもない。
そうして平凡な一日として、ハインリヒも今日一日をやり過ごすつもりでいた―――。

―――ねえ、あなたの誕生日はいつ?

忘れていたはずの声が、けれど、忘れようとしても忘れられるはずのない女性の声が、
ハインリヒの耳によみがえった。
それはヒルダの声だった。

―――ずっとずっと二人が齢をかさねても、お互いの誕生日を祝いつづけましょうね。

たしかに自分にそう言ったのに。

たった一度きりのお互いの誕生日を祝っただけで、彼女は天に召されてしまった。

本当は自分には今日の日を祝ってほしい人なんて、君しかいなかったんだよ、と。

ハインリヒは天国のヒルダにこぼしたい気持ちになった。

これまでも。そして、きっと、この先も―――。





眠ってしまったアンナを抱え上げて、ハインリヒは彼女の両親の暮らす部屋を訪ねた。
泣きつかれて眠ってしまったアンナの姿を見て、彼女の母親は恐縮そうに肩をすぼめていた。

「つまらないことを言い争って、部屋を飛び出してしまったんですよ」

本当にいつもすみませんね。と、母親はハインリヒに詫びた。
適当に言い逃れをして、ハインリヒは部屋を後にした。


表に出ようとしたとき、ハインリヒはなにげなく自分の部屋のポストを覗いてみた。
蓋をあけると、中に入っていた数枚の手紙がばさばさと音をたてて床に落ちた。
落ちたそれらを拾い上げて見ながら、彼は苦笑した。

その一枚一枚には、皆どこかで見おぼえのある字がおどっていた。

一枚に一枚に同じ言葉。
それぞれの言葉で書かれた、自分の誕生日を祝う言葉が、そこには記されていた。


何事もなかったふりを装って、ハインリヒはアパートを後にした。

手には、自分のために贈られた沢山の祝いの言葉たちを携えながら―――。



2004年9月19日のお誕生日に寄せて。


アルベルトへのメッセージ・・・「お誕生日おめでとうございました(汗)」